AKEMI TAKEYA

Live in Japan

∅Little Stories about SOS.:Survival Of Solo | SOSに関する小作品集 [Solo Version]
ソロパフォーマンス& ビデオインスタレーション

チラシの full Version PDF の Download はこちらからどうぞ→ SOS TAKEYA

[日時]10月5日[金]19:30開演、6日[土]16:00開演、7日[日]17:00開演
[会場]BankART Studio NYK 1F [料金]前売2,500円、当日3,000円
* 7日は公演直後アーティストトークあり。司会:溝口 敏雄氏。  ***詳しくはこちらからどうぞ → 大野一雄祭@bankArt Yokohama

「SOS」という単語の意味と綴りから導き出される言葉と身体イメージによって、31個の「SOS」という限界状況を物語ることを試みた作品です。ソロ公演の他に創作プロセスのドキュメンタリービデオ作品を展示します。 *展示は毎日11:30より開演時まで公開。展示のみの観覧は無料

「SOSに関する小作品集 : ソロヴァージョン」は、2011年に初演した同タイトルの「グループヴァージョン」の直後に起こってしまった東日本大震災によって、その内容が若干変容せざるを得ませんでした。なぜなら、モールス遭難信号の「SOS」と関連する新しい意味を持つ31個のセンテンスを造ることで、他者との脆弱な関係性を模索していた地震前の「SOS」と、連携・関係を必要とする遭難信号としての地震後の「SOS」は全く異質なものになったからです。それは人として、そしてパフォーマーとしての私自身の在り方を見直す契機になったのです。私は”我々”という主語で語っていくための通り道として 、”自己” を新たに検閲し語り始めたいと思いました。

今回の公演を、私が今まで実践してきた身体表現とその検証による研究実績の総体を形作るものにしたいと考えています。そのためにドキュメンタリービデオによるインスタレーションとソロダンス・パフォーマンスという二つの形態によって身体の解釈を提示します。 スケッチ/スコア →  have a look here

ビデオインスタレーションとしての「SOS」
ライブパフォーマンス作品を見たいという恣意を持つ観客から離れ、偶然に公共の場に居合わせる他者の前でパフォーマンス=リアルタイムで行為するという必要性を私は感じました。スタジオでの稽古によって操作され創られてしまう身体に根ざしていないメソッドや表現、時間が制約される舞台作品ではどうしても伝えることのできない表現、そして ”そのものになる過程” の映像記録です。作品としての評価を判断される領域ではない場所での行為の中で 「SOS」 を発信するというテーマを自問自答しつつ核に近づきたいのです。一個人の 「SOS」 が他者の中で何を意味しているのか、何が伝えられるのかを知ることを自分に課しました。

ライブパフォーマンスとしての「SOS」
ソロダンス・ヴァージョンとしての 「SOS」はグループヴァージョンと同様に、人間の反応と行動の必然原理の探索、生命保持の為の瞬時の反応や感情の描写、限界状態での判断基準と得られる対処、本能的に持ち得る察知能力、諦念のなかでも想起してしまうユーモア等を構成要素とします。それらの要素は現代社会が持つ刹那的に流れ去ってしまう時間感覚の加速化、情報伝播の制度化とその構造の退廃化を考慮しつつ、象徴的に折り込んで記号還元します。
(タケヤアケミ、2012年夏)

* 「SOSに関する小作品集:パート1|グループヴァージョン」は, NPO法人ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)主催 の2010年度 「踊りに行くぜ!!」II(セカンド)  vol.1 の委託作品。2011年の2月に福岡で18日間のレジデンスで創作・初演される。出演者は地元で募集し選出した男性3名、ウイーンを拠点に活動している日本人女性ダンサー、そしてタケヤが出演する計5名のパフォーマーによるメンバーで行われた。グループヴァージョン → have a look here

*このソロヴァージョンに関しては,アートプロデューサーの住吉千恵さんの恵比寿の ナディフアパートの3Fトラウマリスで,昨年の10月に実験的に行なったレクチャーパフォーマンス、さらにウイーンでのギグ等を経て,今回作品化に至りました。

創作日誌(抜粋):
Note #04. Statement On Substance |中身の立証|立つ。逆風。立つ女の身体を支える。心臓の鼓動が伝わる。生。立つ。逆風。頭を下にして地球に垂れ下がる。ぶらぶらと揺らぐ。左へいつも傾いてしまう私の首からなだれ落ちる肉。その肉片の欠け落ちた傷口から流れる呼吸体は白い皮膚に広がるインク状の波紋。乱れ咲き。皮膚を伝う輝く透明な波紋。乱れ咲き。物質の身体は、エネルギーが円錐状に回転する体内の中心へ崩れる。その傷口の孔に粉々に溶解されながら吸い取られる。溶け落ちる身体。無痛。自分の身体に自分が嵌り込んでいく。奇形。2011年秋

Note # 31. Styles Of Spectacle |美観のスタイル | 振り付けとは存在の美を問うものですか? 或は人工的な動きの数学的な構成ですか? 或は空間内での意図的、計画的に施された事故ですか? 或は如何にも自然に振る舞う為の存在の技巧的な構築ですか? 或は人間の所作の高度な模倣ですか? 或は”生”を抽出しデザインされた飾り物のコレクションですか? 或は自分自身への贈り物ですか? 或はおもしろおかしい商売品ですか? 或は何か他のものですか? 2012年春

レヴュー(セレクション):

…人間存在をドライにみつめる批評精神と、それを伝えるエッジの立った的確な手法が、見る者に強く政治的思考を促す作品だ。ウィーンに住むタケヤが異文化との前線に身を置く中で得た発想であり、日本のダンスの土壌からは出てこない作品と思われる。(グループヴァージョン) ” 記事:竹田真理 /(ダンサート Nr.34 – 2011年前半の関西のダンス・パフォーマンスシーンより)

…タケヤは定期的に作品を披露し、芸術の世界にはめずらしく必ずヒットさせて物議を醸している。ここ数年間の彼女のコレオグラフィーを概観すると、「語り手は結局自分のことしか語れない」という告白に帰着する。彼女はこうして常に「マルティプルな存在」というテーマを取り上げてきた。…ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが「器官なき身体」と表したような、舞台上の“人物”として分裂した自己の共存を表現したのだ。記事:FEELER / ヘルムート プレープスト (standard )

…ダンスの舞台上のパトスを表現し、観る者を罠に落とす。パトスはそれが信じられている場所で本領を発揮する…ダイナマイトが仕掛けてある。観る者がまんまと罠にかかる時、自我というセンチメンタルな幻覚の中で自己を再発見するのだ。そしてあたかも気分のように、その自己はいとも簡単に熱のこもった芸術の手にかかってしまう。それは、タケヤが優れたダンサーでもあるからだ。強烈なめまいを感じずにはいられない。記事:ZZ / ヘルムート・プレーブスト(ballettanz international)

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